omiは不発弾

高知っていいところだよねぇ。

やばい、えもい、マジ

 本は価値観を深める。

 


 あまり本を読むことはないものの、本を読むこと自体はわりと好きだ。美味しい珈琲飲みたいというのもあるが、落ち着いた空間でゆっくり本と対話する為に、月1くらいの頻度で喫茶店に行っている。
 物語を読むのもまた良いが、最近は考え方などに影響を与えてくれるような本を読んでいる。ビジネス書とまでは言わない。
 普段から何気なく思っていることを掘り下げてくれることに一役も二役もかってくれ、良い刺激になっているわけです。ただ生活するだけではそんなに気にならないことであったとしても、深みを得ることで価値観は広がっていく
 ここまで書いてきたことも、そうして広げられた価値観故のこと。普段使いで大きく困ることはないものの、深みを持つことで見方が変わってくる。それが楽しいし、また違う視点を得ることができる。

 

 例えば、Aさんという人がいて、その人を優しいと褒めたとしよう。

しかし、


・一緒にいて落ち着く
・元気をもらえる
・困った時にアドバイスをくれる

 

などと、より具体的に言えることは多い。優しいの一言にまとめるのは簡単だが、より本質を見ることで、その人のその人らしい尊さに出会うことができる。これが深みだと思う。

 

 

 と、いうことで、また色々考えることができたので、書いていきたい。

 

 

 

 さて、日常の中でよく耳にする言葉。

 

「ヤバい」

 

「エモい」

 

「マジ」

 

などなど。

 

 「エモい」は使ったことないが、「ヤバい」はちょこちょこ使っているわしです。

自分でこの言葉を発する度にちょい反省が起こるわけです。「語彙力ないなぁわしwww」と。父の生前にも、「ヤバい」と言う度に「お前は語彙力がないのか」と突っ込まれておった。

 

 

 今日はそんな、言葉や考え方に関するお話。というかわしの意見。

 

 

・便利な省略語と、それにより失われた伝える力、感性

 突き詰めれば、「ヤバい」とか「エモい」とかは省略語というか、便利に使える抽象的な言葉というか。オールラウンドに使えるといえば聞こえはいいものの、逆に言えば簡単すぎるということ。気軽に使える反面、事細かく感動を伝えるにはあまりにも雑であるということ。

 

 なので、自分が感動したことを伝える時に、"せっかくだから"、もっと感動が伝わるようにできたらいいなと常々思うわけです。

 "せっかくだから"、をわざわざ協調したのはなぜか。日常では「ヤバい」の表現で特に困ることはないからですな。でも、"せっかくだから"より伝えたいのがコミュニケーションなのだと思います。そして、ここが芸術でもあると思う。「ヤバい」の一言にまとめることも、また違った芸術の形とは思いますがね。

 

 例えば、友人が何か凄いことをした時、「ヤバいな」とコメントしたとしましょう。それを、「ヤバい」以外で表現するにはどういったものがあるだろうか。

 といってもみたものの、もちっと具体的じゃないとわかりにくいのぅ。では、「遊戯王で遊んでいて、そこで決めてくる?というところで見事に決められた時」としよう(マニアックなタイミングですいません)。

 

 「うわー。ここでオレは決めるつもりだったのに、見事なタイミングで的確にカウンター決めてきたな。そしてそこからの〇〇かよ。痺れるわ。」(遊戯王わからん人には想像もつかないであろう内容)

 

 何が言いたいかというと、「ヤバい」で済まされるより、言われた側も嬉しいのではないだろうかと。新年の挨拶が手書きの年賀状でくるかLINEでくるかぐらい違うと思う。

 

 ・・・ダメだ。これでは伝わらないw

  相手が見事だったとしても、その表現は「ヤバい」よりも的確なものがあるはずだ。「ヤバい」はあくまでオールラウンドな言葉なので、相手には悪い意味で刺さらないが、良い意味でも刺さらない。

 単語にして考えてみて、「華麗」だったとか、「頭脳的」だったとか。的確に選択すれば良い表現があるのではと思う。

 

 

・時代と共に変わる言葉

 そもそも「ヤバい」という言葉は、現在使われている広い意味とは違う。本来の使い方は、危機的な状況を指すような言葉だ。

 気が付けば、それが誉め言葉のように使われている。その使いやすさは、TwitterFacebookでいうイイネぐらい使いやすい。

 

 本来の意味と違う!それは間違った使い方だ!と突っ込むのは簡単だが、言葉というコミュニケーションは、口から発する音で伝えるもの。単語は相手にわかりやすく伝えるものなのだが、結局は、その"言葉を聴いた側が何を連想するか"なのだと思う。

 例えば、「元気」という単語を連想した時、"はしゃいでいる様"、"にこにこしている様"など、元気的なことを連想すると思う。それが単語であり、言葉なのだと思う。経験を単語化していると言ってもいい。

 と、考えると、「ヤバい」の意味が本来と異なってしまったとしても、聴き手が連想して理解すればそれでいいのかも知れない、と思う部分がある。

 「ヤバい」以外にも、時代と共に変わってきた言葉や新しくできた言葉はある。たとえばー「草」とかね。「草」、「草生える」って何さ?と、意味を知らない方もいるだろう。わしがブログでも時折使っている「w」というのは、ネット上で使う"(笑)"の意味である。そしてその「w」がたくさん出た時の「wwwwww」が草むらのように見える。結果、「草」とか「草生える」と言われるようになった。

 わしも昔は頭が固かったので、「意味違うやん」とかいろいろ思ってましたが、上記のように思うと、否定するばかりでもないと思うようになりました。

 ちなみに、「壁ドン」も、今では胸キュンさせる動作として認知されているが、本来の使われ方は、隣人から「うるせーぞ!」的な訴えを、壁をドンと叩いてされることである。本来の使われ方と違うというより、同じ名前の物がまたできただけではあるかも知れないが、同じ名前だと人はどちらかを連想する。そうした際に、胸キュン動作である方が今では色濃くなったと言える。

 

 

・技名って 名前って

 ゲームとかをしていると技名とのお付き合いは深くなります。テイルズでいえば「魔神剣」とか「獅子戦吼」とか。FFでも「エンドオブハート」とか「超級武神覇斬」とかいろいろあるわけです。現実的にあれらを使うとしまして、ゲームみたいに技名を叫ぶことなんて基本ないわけですが(叫んでいるのはテイルズくらいか)、技名って必要なのかどうかという話。

 テイルズやらFFやらで技の話をすると、現実の技は、技というより手法っぽくなってしまうんですが、剣術でいえば「袈裟切り」とか「突き」とかがあるわけです。

 上記の「時代と共に変わる言葉」でも少し触れましたが、単語を聴くことでその内容を連想したり、思い出したりする。ここも同じで、技名があることによりその技を思い出すことができるということ。

 

 名を付けるということは、その物事に生命を与えることでもある。

 剣で十字に切りつけるという行為をしたとしよう。行為だけでいえば、"ただ縦横に2回切っただけ"という結果でしかない。あくまでただの斬撃だ。下手をすればそのまま記憶にも残らずスルーすらされるかも知れない。そこに「十文字切り」と名を付けることで、十字に切ることという行為が誕生し、名前を聞くだけでその行為を思い出すことができる。

 

 剣以外の話をしよう。赤ちゃんも、生まれた時は赤ちゃんでしかない。名前をつけることで、その赤ちゃんは"個"を得るのだ。名を付けなければ、顔が違おうが、サイズが違おうが皆ただの赤ちゃんでしかない。名を付けることにより、その名前に個がくっついてくる。〇〇ちゃんは、体も声を大きい男の子で、キリっとした顔、などと連想、思い出すことができるようになる。

 

 これが名前(言葉、単語)による力なのだと思う。

 そして、この連想を巧みに利用したものが和歌であったり俳句であったり。日本は昔から言葉遊びが好きだったようである。(特別日本に限ったことでもないか)

 

 

・ものは言いよう、考えよう

 とある本で見たことなのだが、外国で明太子を売り出した際、魚卵であることをそのまま英語にしてしまうと、魚卵を食べる習慣のない外国の方には「気持ち悪い!」!と一切受けなかった。しかし、ハカタ スパイシー キャビアと名乗ると一気に人気になったらしい。キャビアは世界的に有名な珍味で、それに対して気持ち悪いという印象はない。これは博多的なキャビアなのだと名乗ると、印象がガラっと変わったようである。ものは言いようだということが見事に出た事案だ。

 

 長所と短所は表裏一体。物事は立ち位置、見方で変わってくる。

 例えば、自転車。しんどい、疲れるといって自転車を嫌がる人がいるとします。しかし、見方を変えると、運動になる、のびのび移動できる、小回りが利くなどの利点も見えてくるわけです。特に、しんどい、疲れるという項目と、運動になるという利点は表裏一体のもの。

 考え方によって逆のことを言っただけではあるものの、どちらに重きを置いて考えるか、行動するかで結果は大きく変わる。それが、長所を活かすであったり、短所を消すであったりする。

 

 引き続き自転車で考えてみよう。

 長所を活かす場合、「運動になる」と考えて取り組む。自転車に喜んで乗るだろう。むしろ、運動を重視するなら乗る機会が増える(増やす)かも知れない。

 短所を消す場合、「疲れるから嫌」と考えて取り組む。そもそも自転車に乗らない、または乗るとしても、漕ぐのが楽な電動自転車にする、といった方法がある。

 

 

・ストラテジー、タクティクス

 次に、作戦的な考えをしてみる。例えばアンパンマン

 

 アンパンマンは新しい顔(出来立て)に換装することで、元気が100倍になるらしい。付け替えがきくのが長所だ。個人的には、つけ変わった後のパンがどうなったのか気になる。スタッフがあとで美味しく頂きましたよろしく、チーズあたりが回収しているのだろうか。

 話は戻って、味方であるジャムおじさんは、付け替えがきくという長所を活かすべく、アンパンマンの新しい顔がすぐ準備できるようにアンパンマンカー内でのパン製造ができるようにしている。そして、付け替えの有用性を知っている仲間達は、ピンチになるとジャムおじさんへの連絡を急務としている。とある話では、鼻を失くして飛行能力が低下したアンパンマンの前に、なぜか鼻だけを持ってジャムおじさんが現れたこともある。

 

 逆に、短所は、顔のダメージに比例して弱体化してしまうこと。加えて、賞味期限が存在する(時間が経つにつれ劣化)ということだろうか。明確に劇中でそういった描写はないものの、New Faceに交換する前のアンパンマンは、大体バイキンマンにやられてしまう。そして、交換直後のアンパンマンバイキンマンを寄せ付けない運動性能を誇る。そうしたあたり、アンパンマンの顔、賞味期限ある説を証明してしまっているように思う。

 敵となるバイキンマンは、その短所(弱点)を攻めるべく、アンパンマンの顔をより弱体化させる技、戦術を積極的に使っている。

 

 長所(優位)を活かす、短所(弱点)をつくのは基本ではあるが、これがもし反対だったらどうか。

 

 ジャムおじさんが、短所である顔の劣化を意識しすぎた場合、顔がいかに汚れないか、劣化しないかを考えるだろう。水中に潜る際のガラスヘルメットみたいな装備を常時つけるのかも知れない。それはそれで水耐性を得て強い気もするが。

 

 バイキンマンが、相手の長所を意識して戦闘した場合、顔以外の本体(ボディ)の破壊に集中するか、パンをそもそも作らせないために、パン工場を破壊するか、ジャムおじさんを抹殺するかである。

 

 これらは何が正解かと単純に考えるのではなく、自分と相手それぞれの力量、特徴、その時の状況等に合わせて判断していくのが大切。

 例えば、バイキンマンアンパンマンの顔を部位破壊した後に、パンが焼けない状況を作ってしまえば、バイキンマンは圧勝である。しかし、それが読まれていたら、先にパンを焼いておくという手段が取れる。

 先にパンが作れないようにしようとしても、パン工場を攻めている間に、後ろをとられて「はーひふーへほー」になるかも知れない。しかし、アンパンマンが後ろからくることを見越して、追うことに必死になっているアンパンマンの不意をつきやすい場合もある。パン工場を襲いながらも、アンパンマンの弱体化も狙えるかも知れない。

 自身と相手の長所、短所を状況にうまく合わせて利用していくことが戦術であり、戦略なのだ。

 ちなみに、

 戦術は具体的で実践的な戦う手段を指し、戦略は大局的、長期的な視点での計画を意味する。

 

 

・寒いのも悪くない。温かいものを温かいと言えるから

 "不幸であった経験が大切"と言えば語弊があるというか、誤解を与えてしまうが、誤解を恐れずにいえば、"-の部分を感じたから、+が感じられる"「人生、山あり谷あり」ということである。

 例えば、夏に涼しいのを喜べるのは、暑さに苦しんでいるから。逆に、冬に暖かさで喜べるのは、寒さに苦しんでいるからだ。人に優しくできるのは、辛かった時に優しくされた経験があるからだ。何もかもが円満にいっていると、そこに尊さを感じられなくなる。ここで感じる尊さとは、"感謝"である。

 ゴルゴ松本の漢字の授業でも言っていたが、難が無い人生は「無難」。難が有る人生は「有難い」と書く。人が問題、課題、壁に出会った時、それを乗り越えて成長する。それはただレベルアップできたわけではない。その問題、課題に向き合わせてくれた人がいて、壁を乗り越える時、悩んだ時に支えてくれた人がいてできたことだ。故に、難が有った際に出会う人、事へ感謝を伝えているのだと、わしは思う。

 

 

・最後に

 と、このような感じで、本を読む度に考えることは増える。

 日々の中でも考えることばかりだが、物事が世の中には多すぎて、ろくに考えないことの方が多い。そうしたことへ目線を向けるチャンスを、本はくれている。そんな考え方もあるのかと気付いた時、とても満たされた思いになるというか、新しい価値観のおかげで、世界がまた明るくなったように感じるのだ。

 そして、手に入れた思いをこうして書き連ねることで、また自分の中に綺麗に整頓されていく。インプットからのアウトプットという流れ。この流れはとても大切で、せっかくインプットしたことは、アウトプットしなければ意味がない。研修等に参加して刺激受けても、知識として溜めるだけだと世界は変わらないのである。それどころかどんどん薄れていく。見た映画の感想をTwitterにつぶやくだけでも立派なアウトプットになる。限られた文章の中でいかに伝えようかと、見たものを自分の中で振り返り、整理することができている。加えて文章力の向上も見込める。内側に溜め込むだけでは人は成長できない。